岡倉天心は、幕末に生まれ、明治時代に活躍した文科省のエリート官僚であり、近代日本美術の先駆者です。

当時、欧米では産業革命を経て、アジアなどの多くの国の植民地化を進めていた時代。日本も開国し、近代化していかなくては、日本の価値や国力を世界に示さなくては生き残っていけない激動の時代でした。

そんな時代において、天心は、日本美術を再発見・再定義し、文化的な側面から日本を世界に伝える役割を果たしました。彼のやってきたことは多岐にわたり、なかなか実態がつかみにくいのですが、大きく5つに分類できます。

1つ目は、美術教育の仕組みを整えること
2つ目は、古美術を保護し、後世に残すこと
3つ目が、日本美術の指導者として、美術家を育てること
4つ目は、美術史家として、日本美術史をまとめ、研究をはじめること。
そして5つ目が、日本美術の思想や価値観を世界に伝えること

そんな偉業を成し遂げた天心ですが、どんな人生を歩んだのでしょうか?

0歳~福井藩士・岡倉各右衛門の次男として横浜に生まれる

岡倉天心が生まれたのは、1863年。江戸時代が終わり、明治時代が始まろうとしていた時代でした。

幼少の頃から、父の働く貿易商店に来る外国人と交流したり、英語塾に入ったりしており、英語や西洋と触れ合う環境にありました。

もしかしたら、このときの素養が天心の国際的な活躍の下地になったのかもしれません。

12歳~東京開成学校(現在の東京大学)に入学

東京開成学校に入学して2年後に、東京大学という名称になり、天心は文学部に所属することになります。そこでお雇い外国人のアーネスト・フェノロサに政治学や経済学を学んだそうです。

17歳~東京大学文学を卒業。文部省に勤務。

文部省に勤務し、美術行政に携わるようになります。
九鬼隆一と全国の子社寺調査や、フェノロサと日本美術の調査などを始めます。また、フェノロサは、欧米各国の美術教育の調査にも出かけています。

このような環境の中で、天心の日本美術や古美術への関心は芽生え、深まっていったのでしょう。

26歳~東京美術学校(現在の東京芸術大学)を開校。2代目校長も務める。

東京美術学校を開校した天心は、ここで横山大観や下村観山、菱田春草などの芸術家を育て、新しい絵画表現を求めていました。

しかし、そんな順調な天心にも逆風が吹くことになります。
天心の教育方針に反対するものが現れ、また天心の色恋沙汰のスキャンダルも発生し、ついには東京美術学校の校長を辞任してしまうのです。天心が35歳のときでした。

35歳~東京美術学校の校長を辞任。負けじと日本美術院を創設。

その後、辞めた天心は、美術家たちと日本美術を研究するために、日本美術院という団体を作ります。天心の美術への追及は止まりません。

38歳~インドに訪問し、ノーベル文学賞も受賞した詩人タゴールと会う

タゴールはインドの詩人で、アジア人で初めてノーベル文学賞を受賞した人物です。天心はインド訪問時に、タゴールと交流し、インドの郊外でタゴールの行っている少数精鋭の教育を目にしたといわれています。

そして、このことは、に茨城県の五浦で、少数精鋭の美術教育を始めたことに影響しているのかもしれません。

40歳~茨城県の五浦の地を気に入り、土地と家屋を求める。

実は、この頃、日本美術院の活動がうまくいかなくなっていたようです。
日本美術院は最初の頃はうまくいっていたようですが、次第に絵が売れなくなったり、経済的にも、人間関係的にもうまくいかなくなっていったようです。
そんな状況の中でやってきたのが五浦だったのです。

42歳~五浦に別荘と六角堂を建てる。ボストン美術館のアドバイザーにも就任。


※写真は天心邸

天心は、茨城県の五浦に、別荘と六角堂を建てます。

なぜ五浦だったのか?
その理由ははっきりとわかってはいませんが、影響を与えた一つに五浦の自然があったのだといわれています。

茨城県の五浦海岸は、断崖絶壁の壮大な景色が広がります。


※六角堂とその先に広がる五浦の海
※写真提供:茨城大学五浦美術文化研究所

断崖絶壁と入り組んだ海岸線。激しく打ち付ける太平洋の波と、豊かな五浦の木々。都会には無い荒々しく雄大な五浦の自然風景に、刺激されるものがあったのかもしれません。

実は、当時の五浦海岸にあった岩石に魅了されたのではないか?という説もあります。その岩石は、中国の一部の地域で見られる「太鼓石(たいこせき)」という岩に似ており、穴が多く、複雑な形をしています。

そして、アメリカのボストン美術館のアドバイザーにも就任し、日本とアメリカを行き来する生活が始まったようです。

43歳~日本美術院を五浦に移転。4人の少数精鋭の弟子も移り住む。

天心は、遂に、東京に会った日本美術院を五浦に移します。
それに伴い、横山大観、木村豊山、菱田春草、下村観山の4人の弟子を連れてきます。


※五浦での制作風景
※提供:茨城県天心記念五浦美術館

横山大観は建てたばかりの家を売り払い、下村観山は学校の教授の職を辞める覚悟を持ってやってきました。彼らは家族を伴い、ここ五浦に移り住みました。

当時の新聞や雑誌では、この移転を「日本美術院の都落ち」や「没落」などと揶揄していました。大観はのちに、五浦で過ごした時期を「私ども同志の苦難時代」と回想しています。

天心は、ここで起死回生を図ろうとしたのでしょう。

実際に、4人の弟子は五浦で傑作を残しています。
横山大観は、「流燈(りゅうとう)」、
下村観山は「木の間の秋」、
菱田春草は「賢首菩薩(けんじゅぼさつ)」、
木村武山は「阿房劫火(あぼうごうか)」といったなどの近代日本画史に残る名作を完成させたのです。

また、この頃、天心はアメリカで「茶の本」(Book of Tea)を出版し、日本の精神性を世界に伝えます。

50歳~病気のためにボストンから帰国。療養のために新潟へ。

そんな生活の中、50歳のときに、病気のためボストンから帰国し、新潟の温泉のある別荘地で療養します。しかし、病状が悪化し、50歳という若さで亡くなりました。お墓は東京の墓地に建てられましたが、分骨され、五浦の墓地にも葬られました。


※茨城県・五浦にある天心墓地

五浦に分骨されたのは、次のような辞世が天心によって残されていたためです。

我逝かば 花な手向けそ浜千鳥
呼びかふ声を印にて
落葉に深く埋めてよ
十二万年明月の夜
弔ひ来ん人を松の影

自分が亡くなったら、五浦に花を手向けてほしいと訴えています。辞世に残すほど、この地を深く愛したのです。

天心の死後

五浦に日本美術院の拠点を移し、六角堂をたいそう気に入っていた天心でしたが、50歳の若さで亡くなってしまいます。天心を慕い、五浦に移り住んだ弟子たちも散り散りになってしまいます。

日本美術院は天心の死によってついえたようにも見えますが、実はその1年後、弟子の横山大観らによって東京を拠点に再興されています。

情熱を失った日本美術院は、彼らの手によってふたたび輝きを取り戻しました。天心の日本美術に対する姿勢は、彼の死後も脈々と受け継がれていったのです。