実は、当時の五浦海岸にあった岩石に魅了されたのではないか?という説もあります。その岩石は、中国の一部の地域で見られる「太鼓石(たいこせき)」という岩に似ており、穴が多く、複雑な形をしています。

そして、アメリカのボストン美術館のアドバイザーにも就任し、日本とアメリカを行き来する生活が始まったようです。

43歳~日本美術院を五浦に移転。4人の少数精鋭の弟子も移り住む。

天心は、遂に、東京に会った日本美術院を五浦に移します。
それに伴い、横山大観、木村豊山、菱田春草、下村観山の4人の弟子を連れてきます。


※五浦での制作風景
※提供:茨城県天心記念五浦美術館

横山大観は建てたばかりの家を売り払い、下村観山は学校の教授の職を辞める覚悟を持ってやってきました。彼らは家族を伴い、ここ五浦に移り住みました。

当時の新聞や雑誌では、この移転を「日本美術院の都落ち」や「没落」などと揶揄していました。大観はのちに、五浦で過ごした時期を「私ども同志の苦難時代」と回想しています。

天心は、ここで起死回生を図ろうとしたのでしょう。

実際に、4人の弟子は五浦で傑作を残しています。
横山大観は、「流燈(りゅうとう)」、
下村観山は「木の間の秋」、
菱田春草は「賢首菩薩(けんじゅぼさつ)」、
木村武山は「阿房劫火(あぼうごうか)」といったなどの近代日本画史に残る名作を完成させたのです。

また、この頃、天心はアメリカで「茶の本」(Book of Tea)を出版し、日本の精神性を世界に伝えます。

50歳~病気のためにボストンから帰国。療養のために新潟へ。

そんな生活の中、50歳のときに、病気のためボストンから帰国し、新潟の温泉のある別荘地で療養します。しかし、病状が悪化し、50歳という若さで亡くなりました。お墓は東京の墓地に建てられましたが、分骨され、五浦の墓地にも葬られました。


※茨城県・五浦にある天心墓地

五浦に分骨されたのは、次のような辞世が天心によって残されていたためです。

我逝かば 花な手向けそ浜千鳥
呼びかふ声を印にて
落葉に深く埋めてよ
十二万年明月の夜
弔ひ来ん人を松の影

自分が亡くなったら、五浦に花を手向けてほしいと訴えています。辞世に残すほど、この地を深く愛したのです。

天心の死後

五浦に日本美術院の拠点を移し、六角堂をたいそう気に入っていた天心でしたが、50歳の若さで亡くなってしまいます。天心を慕い、五浦に移り住んだ弟子たちも散り散りになってしまいます。

日本美術院は天心の死によってついえたようにも見えますが、実はその1年後、弟子の横山大観らによって東京を拠点に再興されています。

情熱を失った日本美術院は、彼らの手によってふたたび輝きを取り戻しました。天心の日本美術に対する姿勢は、彼の死後も脈々と受け継がれていったのです。