古代エジプトの歴史を知ろう!生活や文明、食事などを徹底紹介

古代エジプト

古代エジプトってどんな生活や文明、食事などをしていたのだろうと気になりませんでしょうか。

古代エジプトは、およそ5000年前の紀元前3150年ごろ、上エジプトと下エジプトが統一されてできた世界最古の王政国家です。

当時のエジプトは地理的に孤立していたので、最後のプトレマイオス朝が紀元前30年に共和制ローマのオクタウィアヌスに滅ぼされるまでの約3000年間、ファラオを王とした安定した中央政権が続きました。

今回の記事では、そんな古代エジプトについてわかりやすくまとめて紹介していますので、ぜひ参考にしてください。

古代エジプトの歴史を知ろう!生活や文明、食事について

古代エジプトの発展はナイル川の恵み

アフリカ北東部に栄えた古代エジプト王国は砂漠の国で、農耕が可能な場所はナイル川流域だけでした。

毎年6~7月ごろに発生するモンスーンが上流のエチオピア高原に降らせる雨の影響で、ナイルの大河が定期的に緩やかに増水して氾濫します。

10月ごろに水が引くと、上流から運ばれてきた黒い土が蓄積した柔らかな土壌は、肥料が不要で簡単に種を蒔くだけで豊かな収穫が得られる肥沃な大地へと変わります。

このナイル川の自然のサイクルによって膨大な人口を養える充分な収穫があったため、古代エジプトは3000年もの間、繁栄を維持できたのです。

ナイル川の恩恵を受ける場所は「ケメト(黒い大地)」、周囲に広がる不毛の砂漠地帯は「デシェレト(赤い大地)」と呼ばれていました。

人々はナイル川流域の数kmの狭いケメトに固まって居住しており、河や海を使った交通や交易が発達して、統一国家を維持しやかったことも長期政権の理由の1つです。

古代エジプト文明は高度

ナイル川の氾濫を正確に予測するために天文学が発達して太陽暦が作られ、水が引いたあとの農地を再分配するために測量術や幾何学が進歩しました。

また、神聖な碑文を記録するためにヒエログリフ文字(聖刻文字)とヒエラティック(神官文字)が考案されて、ナイル川周辺に自生するパピルス草(カミガヤツリ)で作った紙に綴られました。

古代エジプトの庶民の食事はパンとビール!?

何でも墓に入れてしまう古代エジプトの文化と、乾燥したエジプトの気候のおかげで、ミイラと一緒に埋葬された食物や弁当などが石化して見つかっており、古代エジプト人の食生活はかなりよく研究されています。

古代エジプトの人々は農耕を中心とした生活をしていました。主食の大麦と古代小麦を筆頭に、タマネギ・ニンニク・チシャレタスなどの野菜、ブドウ・ナツメヤシ・イチジク・ザクロなどの果実、ソラマメ・ヒヨコマメなどの豆類など豊富な作物が収穫できました。

後に外国から伝わったリンゴ・プラム・オリーブ・スイカ・メロン・モモ・ナシなども栽培されました。

庶民の食事は、古代小麦で作った平たいパンと大麦から作ったビールが主食でした。ビールといっても、今のビールではなく、大麦パンを水に浸して発酵させて濾過したスープのようなものだったようです。

私たちのおにぎりと味噌汁のような感じでしょうか。ちなみに、小麦のパンには、砂や硬い殻が混じっていたらしく、古代エジプト人のミイラの歯はかなりすり減っています。

庶民と上流階級の食生活の違いは肉類でした。牛は農耕用の大事な財産であり、神への供物でもあったので、牛肉が庶民の口に入ることは滅多にありませんでした。

豚は主として食物用の油を取るのに使用されました。鶏が伝わったのは新王国時代(紀元前1570年ごろ)で、裕福な階級のみ飼育が可能だったようです。

庶民は、網を使って魚や野鳥、小動物を獲り、焼いたり、野菜や豆と一緒に煮たりしておかずにしていました。ナイル川は魚や野鳥の宝庫で、魚やカモ、ウサギなどが大量に獲れた様子が壁画に描かれています。

古代エジプト人はワインを作っていた!

壁画から、ブドウ棚を作ってブドウを栽培し、大きな容器に収穫したブドウを入れて足で踏みつけ、発酵させてワインを作っていたことがわかっています。

完成したワインは、神への捧げもの、王侯・貴族の飲み物であり、庶民には手の届かない贅沢なものでした。

古代エジプト女性は専業主婦

男性は農業・漁業・狩猟を行い、農閑期はピラミッド建設や治水工事に従事していました。ピラミッドは農閑期の農民の失業対策でもあったんです。

一方、女性の仕事は家で家事と育児です。サドルカーン(原始的な石のすりばち)で小麦や大麦を挽くだけで相当な労力と時間が必要であり、子どもが多いので、主婦も忙しかったようです。

また、石造りの家を掃除して綺麗に保っておくことも主婦の重要な仕事とされていました。古代エジプト人は綺麗好きだったんですね。

古代エジプトの庶民は男女同権

古代エジプト人は夫婦子どもの家族単位で生活していました。

結婚はロマンチックというよりも、生計を立てる意味合いが強いもので、男子は結婚して子どもを持って一人前という文化のため、女の子が初潮が始まる13歳から、男の子が16歳からと早婚です。

上流階級は政略結婚が多く、裕福な階級は一夫多妻でしたが、庶民は自由恋愛も許された一夫一婦制が普通でした。また、エジプト人以外の外国人との結婚も自由でした。

夫と妻は対等で、持参金は妻の固有財産であり、両者の合意があれば離婚が可能でした。妻は貞淑を求められ、既婚女性の不倫はご法度でしたが、夫と死別・離別すれば再婚も許されるという古代にしては進んでいた社会といえます。

古代エジプトの衣服は涼しいリネン製

古代エジプト人は、ナイル川流域で栽培された亜麻から作ったリネン(麻布)の服を身に着けていました。遺跡から世界最古の亜麻の糸紡ぎ器が発見されています。

男性はシェンティ(白い腰布)、女性は筒型ワンピースという、高温のエジプトに適した軽くて涼しいシンプルなもので、3000年間ほとんど変化がありませんでした。

神の子であるファラオだけは特別な服装をしていましたが、その他の階級の服は同じもので、首輪や腕輪などの装飾品によって身分を区別していたのです。

新王国時代に小アジアから木綿が輸入されて栽培が始まり、裕福層には木綿製の薄いカラシリスも普及しました。履物はパピルス製のサンダルが主でしたが、平民や奴隷は裸足が多かったそうです。

古代エジプト人は坊主頭とショート・ボブ

頭シラミなどの衛生面の問題から、男性は刈り上げ、女性は短く刈り込んだオカッパの髪型が主でした。

頭の被り物には拘りがあったようで、上流階級や神官は人毛や麻糸で編んだカツラを好んで被ってヘアバンドで止め、金・ビーズ・ファイアンス(石英の七宝焼)・宝石を使った冠や櫛、生花などを飾っていました。

一方、庶民の娘たちは、ヘアバンドや蝶結びにしたリボン、ビーズの飾りをつけてお洒落を楽しみ、踊り子たちは長いお下げ髪の先に錘になる飾りをつけて、踊るときの邪魔にならないようにしていたそうです。

子どもは辮髪で全裸が多く、裕福な家庭の子は宝石の首飾りだけを身に着けていたようです。

古代エジプトでは植物油がボディケアの必需品

古代エジプトでは砂や強い日差しから肌を守る植物油が必需品でした。裕福層は高価なゴマ油、庶民は安価なヒマシ油を用いて肌をマッサージし、肌の色艶を保つことに特に気を使っていました。

艷やかな赤銅色の肌は、黒褐色や黄褐色の近隣民族と違うというエジプト民族の誇りであり、男女共に肌の露出に抵抗がなかったからです。

古代エジプトはアイメイクがトレンド

壁画によく描かれているように、古代エジプト人はアンチモン・アーモンド炭・酸化マンガンなどを原料とした顔料で、目の周りに黒色や灰色の太いアイラインを塗り、自前の眉を剃り落とした上から木炭で太い眉を描く独特の化粧をしていました。

このアイメイクは魔除けが目的でしたが、実は強い日差しや眼病から目を守る効果がありました。アメリカの野球選手が日差しの反射を抑えるために目の下を黒く塗っているのと同じで、サングラスの代用だったのです。

貴婦人たちは、アイラインに加えて、茶褐色の顔料を水で練った白粉、ヘンナ(ミソハギ科の草)と油脂で作った口紅や頬紅、孔雀石などの宝石をすりつぶしたアイシャドー、ヘンナのマニュキュアなど、いろいろな化粧を楽しんでいました。

古代エジプトの妻は個人財産を持っていたので、比較的裕福な家庭であれば白粉や黛などを自由に購入できました。

3000年前の遺跡から動物性の油脂に香料と樹脂を混ぜた世界最古のスキンケア化粧品が発見されています。

古代エジプト最後の女王クレオパトラ7世は、上瞼を青、下瞼を緑に彩って、ローマの英雄カエサルを魅了したといわれています。

メトロポリタン美術館のクレオパトラ像を見ると、顎が出っ張っていてあまり美人とはいえませんが、ローマ人には優美でエキゾチックな絶世の美女に映ったのでしょう。

古代エジプトの庶民は働き者だった

デモティック(ヒエログラフを簡略化した民衆文字)で記されたパピルスの古文書には、離婚時の財産分配の取り決めや二日酔いの治し方、口うるさい上司と自分勝手で欠勤の多い部に対する悩みなどが綴られています。

日中はせっせと働いて余暇にビールを飲んだりゲーム・ボードで遊んだり、家事育児をして化粧やアクセサリーを楽しんだりと、古代人の生活も現代の我々と余り変りのないものだったのかもしれません。

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