日本を揺るがした怒涛の15年!幕末の流れをコンパクトに解説

幕末 流れ

幕末って面白そうだけれど、「何がどうなってるのかよくわからない!」という方も多いではないでしょうか。幕末は登場人物が多くて、誰が何をしたのかわかりにくいですよね。

そこで今回の記事では、黒船来航から始まる幕末の流れについてコンパクトに解説したいと思います。

幕末の流れをコンパクトに解説!日本を揺るがす怒涛の15年とは

幕末の流れ①「動乱のすべては黒船来航から始まった」

朝廷から政治を任されていた徳川幕府が崩壊への道をたどり始めたのは、1853年のペリー来航がきっかけでした。

黒船(軍艦)の脅威を背景に開国を迫られた幕府は、翌年に日米和親条約を結んで下田と函館を開港、長年の鎖国体制は終わりを迎えます。

次にアメリカは、さらなる開港と自由貿易を目的とした通商条約の締結を要求してきます。

幕府は内心では仕方あるまいと思いつつも、「事が重大ゆえに勅許(天皇の許可、許し)を頂いてくる」と時間稼ぎをし、老中・堀田正睦が京に上りました。

勅許によって条約締結を正当化しようとのもくろみもあったためです。

幕末の流れ②「開国で生活が厳しくなり、加熱する外国への敵対心」

しかし、外国嫌いの孝明天皇は、勅許を拒否しました。

思わぬ事態に幕府は慌てますが、大老(最高責任者)に就任した井伊直弼が独断で日米修好通商条約に調印(1858年)。

その後も相次いで他国と通商条約を結びました。天皇の意思をないがしろにされた朝廷は、当然幕府への不満を膨らませます。

加えてその時期は、突然始まった対外貿易の影響で品不足やインフレが発生し、生活が厳しくなったこともあって、武士を中心に外国への敵対心が高まっていました。

やがて、天皇と朝廷の権威を高めようとする尊王論と、外国人を打ち払おうとする攘夷論が結びつき、尊皇攘夷熱が急速に加熱していきました。

幕末の流れ③「安政の大獄と桜田門外の変を経て、舞台は江戸から京へ」

尊皇攘夷運動は結果的に幕政批判につながるため、その動きを危険視した井伊大老は、尊攘派や反体制勢力の公卿・大名・志士ら百余名を弾圧・処刑しました[安政の大獄]。

しかし、多くの恨みを買った井伊は、後に尊攘派の水戸浪士らに斬殺され[桜田門外の変]、幕府の権威は大きく傷つきました。

井伊暗殺で尊攘派が息を吹き返す中、特に勢力を拡大したのが長州藩でした。

急進派の公家と手を結んで朝廷を操り、京都市中では「天誅!」と叫びながら開国派の暗殺を繰り返し、江戸から上洛した将軍家茂に無理やり攘夷決行を迫ります。

ついには下関海峡を通る外国船にいきなり砲撃を加える過激ぶりでした。

幕末の流れ④「暴走の末に長州は都落ちし、京では新撰組が大暴れ」

しかし、長州の余りの過激な行動が国を誤らせることを恐れた孝明天皇の意を受け、会津藩と薩摩藩が中心となってクーデターを実行しました[八月十八日の政変]。

長州藩は三条実美ら7人の急進派公家と共に京から追放されました[七卿落ち]。

京の治安維持のため「新選組」が発足したのも同じ年で、翌1864年には、御所焼き討ちを謀議中だった尊攘派浪士を一網打尽にした「池田屋事件」で、新選組の名は天下に轟きました。



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