歴史に翻弄された国宝・犬山城!見どころや歴史を1から紹介

犬山城

愛知県の犬山市にある国宝犬山城。実は歴史に翻弄されたお城というのをご存知でしょうか。

今回の記事では、そんな犬山城の歴史だけでなく、見どころポイントなども紹介しています。

1.国宝犬山城はどんなお城?

戦国時代の1537年(天文16年)、織田信長の叔父・織田信康(おだのぶやす)によって築かれた、現存する最古の城です。

城は木曽川に面した小高い丘の上に建っているのですが、もともとは丘の麓にあった木之本城を廃城にして移ってきたといわれています。

江戸時代までは天守のある城山全体に本丸などが建てられていましたが、明治政府により天守以外は取り壊されてしまいました。

天守は「三重四階地下二階」になっており、2階までは創建当時のまま、3階以上は1600年代に増築されたといわれています。1935年(昭和10年)に国宝に指定されました(1952年[昭和27年]再指定)。

2.守りは万全のはずなのに、元城主に攻略された犬山城の歴史

2-1 犬山城は自然の堀や木曽川、小高い丘で見通し万全

木之本城は平地に造られていた平城でした。平いらなお城は四方から攻められる危険があります。そこで、木曽川に面した標高80mあまりの丘陵に城を造って移転しました。

それが犬山城で、丘の頂上に天守や本丸を建てた跡、城の裏手には大河・木曽川が流れ、そこから水を引いた堀も三方に造りました。

木曽川と反対側はなだらかな丘状になっており、頂上にある本丸・天守に向かって、いくつかの建物が建てられていました。

本丸、天守からは周りを360度見渡すことができ、敵の侵入をいち早く発見できる絶好の立地です。この天守からの360度見渡せる景色は、現在も犬山城の見どころのひとつになっています。

2-2 正面には敵を撃退するいくつもの仕掛け

背後は木曽川が要害の役割を果たしており、両脇は崖で比較的守りやすかったため、正面の守りを充実させました。

正面、入口の上には石を落として敵を撃退する「石を落とし」を、また正面から攻めてくる敵を、側面から攻撃できる「付櫓(つけやぐら)」なども装備しました。

2-3 守りは十分のはずなのに、攻め落とされた犬山城の歴史

織田信長軍に攻略され、池田恒興が入場

1547年(天文16年)に織田信康が亡くなり、その子信清が城主となりました。信清は信長に仕えていましたが、領地の配分に不満を持ち、1562年(永禄5年)に信長に対して反旗を翻します。

しかし、1565年(永禄8年)に織田信長軍により、犬山城を正面から攻め落とされました。代わって入場したのが信長の乳兄弟、小姓として仕えた池田恒興(いけだつねおき)です。

池田恒興はその後尼ヶ崎城に移り、犬山城には織田信長の五男で、恒興の娘婿だった織田信房が城主となりました。しかし、1582年(天正10年)6月2日の「本能寺の変」で、信房は信長に殉じてしまいます。

代わって犬山城には信長の次男、信雄(のぶかつ)の家臣、中川定成(なかがわさだなり)が入場したのです。

秀吉軍の元犬山城城主・池田恒興が木曽川から犬山城を攻撃

「本能寺の変」から織田信雄、羽柴(後の豊臣)秀吉、柴田勝家(しばたかついえ)、徳川家康らの覇権争いは激しくなります。秀吉はまず、1583年(天正11年)に柴田勝家を滅ぼしたのです。

翌年1584年(天正12年)には信雄の領地であった犬山城を占拠しました。それに呼応して、信雄と手を組んだ家康が小牧山城(現小牧市)に出兵しました。

これにより秀吉と家康が相対する「小牧・長久手の戦い」が勃発した犬山城を攻めたのは、以前犬山城の城主だった池田恒興です。

池田恒興は家康・信雄陣営だと思われていたが、秀吉軍に加わり、犬山城を攻め落としました。勝手知っている犬山城を一晩で攻略したといわれています。

池田恒興は強固な守りのある正面ではなく、背後の木曽川を渡って攻めました。もともと木曽川からの攻撃など想定になく、不意を突かれた中川定成軍はひとたまりもなかったようです。



犬山城