日本アルプスを背景にそそり立つ立派な松本城は、お城ファンでなくても惹かれます。戦国時代より、信州の地は、戦国武将たちの野望が渦巻く地でした。
そのため、松本城は、城主が次々と目まぐるしく変わっていきました。血なまぐさい歴史があるにも関わらず、国宝松本城はその美しい姿を見せています。
今回の記事では、ものすごくわかりやすく松本城の歴史をご紹介します。ぜひ参考にしてください。
松本城の歴史を1から知ろう「どのように建ち、今に至ったのか?」
松本城の歴史①「松本城の歴史は深志城から始まる」
昔から、信濃国深志郷を治めていたのは坂西氏で、そのまわりに人々が暮らしていました。
室町時代(1504年)、島立家がそこに深志城を建てました。
ここから松本城の歴史が始まります。
松本城の歴史②「武田信玄が32年間、深志城を拠点に」
戦国時代、武田信玄は信濃侵攻への足がかりのため、その当時の城主である小笠原長時を深志城から追い出しました。
1582年に織田信長が武田信玄を滅ぼすまでの32年間、この城を治めました。滅んだ武田信玄の後には、小笠原洞雪が深志城に入ります。
松本城の歴史③「武田信玄に追い出された小笠原長時の子供が城を奪還」
小笠原長時の子である貞慶は、松本城から小笠原洞雪を追い出し、父の恨みを晴らし、城を奪い返しました。
ちなみに小笠原長時と小笠原洞雪は兄弟で、小笠原貞慶は、洞雪とは叔父甥の関係になります。
戦国時代を絵にかいたような話です。
松本城の歴史④「松本城という名前が、初めて歴史に登場」
小笠原貞慶は、深志城を松本城と改め、ここに歴史上、はじめて松本城という名前が登場しました。
貞慶は、城と城下町の整備に手を付けます。
松本城の歴史⑤「松本城の天守が完成」
徳川家康が関東に移る時、小笠原貞慶も8年間いた松本を去り、古河に移りました。その後城主になったのは石川数正です。
彼は、元々は家康の家臣でしたが、1585年、大阪へ出て秀吉の家臣になった人です。家康を裏切ったとか、いや家康のスパイとして送られたとか、この人物評は分かれます。
石川数正と康長親子は小笠原貞慶が始めたお城の整備を引き継ぎ、城下町をさらに発展させました。
今ある形の松本城天守がこの時代に完成しました。
松本城の歴史⑥「江戸時代、松本城は徳川家と深いつながりがある」
江戸時代、松本城の城主は、6家にわたりました。在任期間は、はじめは短く、1726年に城主になった戸田氏は、大政奉還までの145年間、城主をつとめました。
城主をつとめたそれぞれの一族は、徳川家と深い関係でした。松本城は、徳川幕府にとって信州の要の城であったことを示しています。
松本城の歴史⑦「明治維新の混乱を乗り切って、生き残る」
江戸時代またはそれより前に建てられた天守のうち、現代まで保存されている天守は、全国で松本城を含めて12しか残っていません。
江戸時代の1国1城令による取り壊し、災害や失火などによる焼失や倒壊に加えて、幕末から明治維新にかけての混乱で多くの天守が壊されました。