幕末・維新を理解するためのキーワード!大政奉還とは何のこと?

大政奉還

皆さんは大政奉還についてご存知でしょうか。 幕末を舞台にしたドラマなどで聞いた覚えはあるけれど、何のことかよくわからないという人も多いと思います。

そこで今回の記事では、明治維新を語る上で欠かせないキーワードである大政奉還について、背景も含めてわかりやすくご説明したいと思います。

1.大政奉還とは何か?

一言でまとめると、「徳川幕府が天皇に政権を返すこと」を指します。言葉の意味そのものはとてもシンプルです。

でも「水戸黄門」「暴れん坊将軍」をはじめ、江戸を舞台にした時代劇を何度も見たことがある人なら、「政権ってそもそも徳川幕府のものでは?」「天皇に政権を返すってどういうこと?」と不思議に思う人も多いでしょう。

確かに徳川家康以来の代々の将軍(正式には征夷大将軍)は、幕府(政府)のトップとして実質的には国王のように全国を治めてきました。

でも形式上、徳川家は朝廷から征夷大将軍に任命されたことによって、初めて最高権力者の座についているのです。

つまり政治の実権を握っているのは幕府であり将軍ですが、元首はあくまで天皇であり、徳川家は天皇の代理として政治を実行する権利を託されている、という建前が貫かれていた訳です。

では、なぜ幕末と呼ばれたこの時代になって、徳川幕府は政権を天皇に返そうとしたのでしょうか。その経緯を簡単に説明します。

2.大政奉還への道を簡単に紹介

「黒船来航による開国派vs攘夷派の対立」

徳川幕府の権威が揺らぐきっかけとなったのが、1853年の黒船来航でした。

アメリカに開国を迫られた幕府は、翌年に日米和親条約を締結しましたが、この時は下田と函館の開港に限定され、友好条約程度の内容だったため独断と事後承諾でことは進みました。

しかし、アメリカが次に求めてきた日米修好通商条約は、神奈川、兵庫、大阪など主要都市の開港や、アメリカ人の居住と自由貿易の許可など本格的な開国につながる内容を含んでいました。

幕府は「この条約は重大な内容を含むから勅許(天皇の許可)が必要だ」と建前論を振りかざし、のらりくらりと時間稼ぎを図ったのです。

もちろん、幕府も内心は「アメリカと戦うわけにはいかないし、条約締結は仕方ないだろう」と考えており、最終的には勅許をもらうことで条約締結を正当化するつもりでした。

しかし、幕府にとって思わぬ事態が起こります。何百年にもわたる鎖国の慣例を自らの代で破ることを不安に思った孝明天皇が、断固として勅許に応じないのです。

困った幕府

困った幕府は何とか勅許を得ようと朝廷工作を進めますが、朝廷内にも攘夷(外国人を打ち払えという主張)の立場を取る人は多く、幕府の思惑通りには進みません。

やがて世間も勅許獲得に必死な幕府の姿を見て、「天皇の方が上なのか」と改めて気づきます。

さらに「天皇は攘夷をお望みだ」ということで、水戸・長州など諸藩の攘夷派志士たちが朝廷と結びつきを強め、開国派を標的としたテロを行うなど、過激な活動を展開し始めたのです。

「幕府の弱体化、切り札徳川慶喜の将軍就任」

自らの権威の衰えに危機感を感じた幕府側は、開国派の実力者である井伊直弼が大老に就任しました。勅許を得ないまま日米修好通商条約を結びます。

強引な条約締結に反発した攘夷派は、朝廷工作により幕府を非難する内容の密勅(天皇からの密令書)をゲットしますが、幕府をスルーして朝廷と直に手を結ぶ動きを危険視した井伊は、攘夷派への徹底的な弾圧を実行します。

これが有名な安政の大獄で、以後幕府と攘夷派諸藩の対立は決定的となるのです。

その後井伊大老が暗殺された「桜田門外の変」(1860)、第14代将軍家茂と天皇の妹和宮の結婚(1862)、過激な長州藩を朝廷から締め出した「八・一八の政変」(1863)、その復讐に長州藩が京へ攻め込み敗北した「禁門の変」(1864)、直後に幕府が仕掛けた二度の「長州征伐」などを経て、幕府の弱体化が明らかになっていきました。

そして「このまま幕府に政治を委ねて大丈夫か」「幕府を倒し天皇を中心に新たな体制を作るべきだ」と倒幕の気運が高まった頃に、若き将軍家茂が病死します。

かねてより有能と言われた一橋慶喜が1866年に第15代将軍の座につき、いよいよ大政奉還への歯車が回り始めます。

3.そして大政奉還が実現する

慶喜が将軍の座についた当時。かつて仇敵同士だった二大雄藩の薩摩と長州は、坂本龍馬のあっせんで既に薩長同盟を締結しました。

幕府を倒して新体制を築くため、イギリスから武器や艦船の購入支援を受けるなど倒幕戦争の準備を進めていました。

一方の幕府には、フランスが軍事的な支援を行っていました。しかし幕府と薩長がもし内戦状態になれば、英仏両国が介入し泥沼状態になる恐れがありました。

慶喜もその危険性に気づいており、しかも幕府にかつてのような威信も実力もないと冷静に認識していたため、この難局の打開に頭を悩ませていました。

そんな慶喜に、「いっそ政権を返上してはいかが?」と提案したのが、土佐藩の前藩主・山内容堂でした。

自主的に徳川家から政権を天皇に返せば、武力倒幕の口実がなくなり、平和的な政権交代への道が開けるからです。

「それは名案!」とばかりに慶喜は提案を受け入れ、1867年11月9日、京都の二条城に諸藩を集めていきなり大政奉還を宣言しました。

内心では「政権を急に返されても朝廷はきっと困るから、体制が変わっても自分がリーダーシップを発揮できるはず」との打算もあったかもしれません。

ちなみに山内容堂に大政奉還を提言したのは腹心の後藤象二郎ですが、後藤に入れ知恵したのは同じ土佐の坂本龍馬でした。

アイデア自体は横井小楠、大久保一翁など当時の先覚者から教わったものですが、ここぞというタイミングで後藤へインプットし、舞台裏で糸を引いたことから、大政奉還の影のプロデューサーは龍馬だったと言えるかも知れません。

4.まとめ

いかがでしたでしょうか。先手を打って大政奉還を宣言された薩長は、その後強引に幕府を挑発し戊辰戦争に持ち込んだものの、倒幕の大義名分が失われていたこともあり内戦は短期で終結しました。

外国に干渉されることもなく明治新政府の治世へと移りました。その後の歴史の展開を思うと、大政奉還は一つの重要な節目だったと言えるでしょう。

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