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これぞ和食の真髄!天ぷらの発祥や歴史、語源を調べてみました

公開日:2021.10.29 更新日:2022.11.16

目次

家庭の定番料理「天ぷら」。衣をつけて揚げるだけのシンプルな料理ですが、野菜や魚を簡単に摂取でき、冷蔵庫にある残り物の食材ですぐ作れるところが魅力です。

そんな家庭料理の定番、“天ぷら”ですが、どこで生まれ、どのような歴史があるのでしょうか。今回は、天ぷらの発祥や歴史などをご紹介します。

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これぞ和食の真髄!天ぷらの発祥や歴史、語源を調べてみました

海外から伝わった「長崎天ぷら」

南蛮料理は、室町時代にポルトガルから伝わりました。16世紀、南蛮料理を元に「長崎天ぷら」が生まれます。やがて、17世紀には関西に伝わり、江戸時代には関東まで広がりました。

また、1543年、種子島に鉄砲が伝来、1549年に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが来日します。この時に、南蛮料理のレシピがもたらされても不思議ではありません。

「天ぷら」の語源とは

そもそも「天ぷら」の語源は何なのでしょうか。ポルトガル人が伝えた料理法に起源があるようですが、語源にはさまざま説があります。

いずれもポルトガル語で、

「テンペロtempero」説

temperoの意味は、調味、調味料。

「テンペラルtemperar」説

temperarの意味は、調味する、混ぜ合わせる。

「テンプロtemplo」説

Temploの意味は“寺院、教会。

「têmpora」説

têmporaはキリスト教と関係のある言葉で、「四季の斎日」を意味します。

3月,6月,9月,12月の最初の水曜,金曜,土曜日をtêmporaといい、信者の方たちはキリストの受難を忍び、肉食を禁じて野菜と魚の料理のみを食べる習慣があります。

16世紀、宣教が油で揚げた魚を食べていたので、それを見ていた日本人が油で揚げた魚を“テンプラ”というようになった、という説です。

もともと日本にもあった「てんふら」

「てんふら」という文字が、文献にはじめて登場するのは、江戸時代前期。しかし、それ以前にも、“素材に衣をつけて油で揚げる”料理は、既に確立していたようです。

そこに、南蛮料理の「テンプラ」が、日本に入り、庶民の生活に浸透していきます。当時、「てんふら」を見た外国人が、それを「テンプラ」と言い、逆の場合もあったかもしれません。

実は“テンプラ”の発祥は6世紀のペルシア帝国

天ぷらは南蛮料理として日本に入ってきたのですが、現在文献に残っている天ぷらの起源ははるか昔、6世紀のペルシア帝国にまでさかのぼります。

ペルシア帝国、ホスロー1世の大好物シクバージ

現在のイランを中心としたペルシア帝国のササン朝の王であったホスロー1世の大好物が、シクバージと呼ばれる甘酸っぱい牛肉の煮込み料理でした。

ホスロー1世は、大勢の料理人に最高のシクバージを作るよう命じました。

やがて、ササン朝は滅び、イスラム勢力が拡大し、750年、アッバース朝が成立します。市場町には、ペルシアでシクバージの作り方に精通した料理人が雇い入れられました。

そして、この料理は、新しい支配者たちにも好まれるようになります。

シクバージとは

シクバージは、具のいっぱい入った牛肉の煮込み料理。鶏肉や仔羊が入ることも多く、たくさんの種類の香草と、時には、いぶした木のチップで風味をつけて、必ず大量の酢で漬けたものでした。

酢は古代から保存料として知られていたようで、シクバージも古い時代に同じ地域で作られていた酸っぱい煮込み料理が形を変えたもののようです。

魚のシクバージの登場

シクバージはイスラム世界にあっという間に広がります。そのきっかけを作ったのは船乗りたち。保存食に頼らざる得ない彼らには重宝する料理でした。

そして、彼らが牛肉ではなく、魚のシクバージを作り出したと考えられています。

魚のシクバージは、“小麦粉をまぶしてから揚げた魚に、酢とハチミツと香辛料で味付けしたもの” でした。

やがて、レシピは地中海の港をつたって、西へ西へと広がっていき、フランス、イタリアにまで到達します。

キリスト教徒とシクバージ

イタリアやフランスでシクバージを食べるのは、主にキリスト教徒たちでした。

なぜなら、中世のキリスト教徒には、1年の3分の1以上の断食の期間(têmpora)があり、この期間は、肉、乳製品、卵を取ることができなかったからです。

魚料理しか口にできなかった彼らにより、魚のシクバージはさらに形を変えて、広がっていくことになります。

やがて、1492年、レコンキスタ(国土回復運動:キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動)により、キリスト教の影響がスペインやポルトガルにまで拡大します。

この頃にはスペイン、ポルトガルで入手できる料理本に、「衣つき魚」と呼ばれる、卵の衣を魚に着けて油で揚げて、酢と油をからめて食べる料理が紹介されていたようです。

シクバージは日本へ

シクバージの旅は続き、1530年代、スペインはペルーを征服、シクバージから派生したエスカベーチェ(パン粉や衣の有無は関係なく、まずは魚を揚げる)をペルーにもたらし、日本へは、ペスカド・フリート(必ず衣をつけて魚を揚げる)が、ポルトガルのイエズス会によって持ち込まれました。

こうして天ぷらは、6世紀のペルシア帝国から16世紀の日本へ伝わり、南蛮文化の隆盛と共に長崎の庶民の暮らしに溶け込んでいくことになります。

和食「天ぷら」の発展~江戸の人気メニューに

長崎から伝わった「長崎天ぷら」は、衣に砂糖や塩を加え、ラードで揚げるものでしたが、関西では野菜を中心とした食材を植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展。

さらに、江戸へと伝わり、魚河岸で取れた魚をゴマ油で揚げる「ゴマ揚げ」が主流になっていきます。

江戸での天ぷらは屋台で、揚げたてを立ち食いする江戸庶民の食べ物でした。蕎麦・寿司・鰻などと共に屋台料理は盛んとなり、また、植物油の生産も増えて、一気に天ぷらは大衆に広がっていきます。

天ぷらは世界に誇る和食の一つに

そして、屋台食に代わり、天ぷら店が現れるのが幕末近く。また、関東大震災で職を失った料理人が各地に移り、江戸前の天ぷらが全国に広がりました。

専門店のみならず、庶民向けのお惣菜屋としての天ぷら屋も存在していたようです。そして、1920年頃、“tempura”が、初めて英語として登場します。

現在では、天ぷらは日本を代表する料理の一つとなりました。2013年、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたこともあり、これからも世界中の人に、天ぷらは愛されていくことと思われます。

最後に

いかがでしたでしょうか。今回の記事では、天ぷらの歴史をご紹介しました。

南蛮料理の一つだと思っていた天ぷらも、それ以前の歴史を知ると、長い変遷を経てきた奥深い料理だと分かります。

天ぷらは日本各地でさまざまな調理法があるようです。皆さんも試してみてはいかがでしょうか。

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