水戸の偕楽園を造った「徳川斉昭」とは、どんな人なのか?

徳川斉昭

アイキャッチ画像:https://ja.wikipedia.org/から引用

水戸で有名な歴史上の人物と言えば、水戸黄門こと徳川光圀の名前が真っ先に挙がるでしょうが、水戸の観光名所として名高い「偕楽園」「弘道館」を作った徳川斉昭も、ぜひ知っておいてほしい人物の一人です。

そこで今回の記事では、維新史を彩る大物として大河ドラマ『西郷どん』にも登場し、幕末期に多大な影響を及ぼした徳川斉昭についてご紹介します。

1.徳川斉昭の生涯はどんなだったの?幼少期から死に至るまで

徳川斉昭の生涯①「飼い殺し同然の幼少・青年時代」

水戸藩は徳川幕府を創った家康の十一男頼房を初代とし、将軍家に次ぐ高い地位を与えられていた御三家の一つです(後の二つは尾張藩と紀州藩)。

斉昭は水戸藩の第7代藩主・治紀(はるとし)の三男として、1800年に江戸で生まれました。

幼い頃から聡明で知られた斉昭は、藩の跡継ぎである長兄・斉脩(なりのぶ)に万一何かあった時のために、部屋住みとして実家に残されていました。

次兄と弟が養子縁組によって将来の居場所を確保していたのに対し、大人になっても飼い殺しの状況に置かれていたのです。

しかし、父・治紀の死去第8代藩主となっていた斉脩が、子供ができないまま30代で若くして病死。次の藩主をめぐってはゴタゴタもあったものの、斉脩の遺言が見つかったことで斉昭が第9代藩主となりました。

長兄に跡継ぎがいれば一生部屋住みで終わった可能性もあったので、ある意味強運の持ち主と言えるでしょう。

徳川斉昭の生涯②「改革に腕をふるった藩主時代」

藩主となった斉昭は、次々と藩政の改革に乗り出します。その一つが、全国一の規模を誇った学校「弘道館」の設立です。

教授陣には一級の人材を招き、下層藩士でも分け隔てなく門戸を開放。教科は歴史・天文・数学・音楽などの学問から、剣術・兵学・鉄砲・水泳などの武芸まで多岐にわたりました。

ユニークなのは卒業の制度を設けなかったこと。「学問は一生行うもの」との考えの下、「生涯学習」の概念をいち早く取り入れた斉昭の先見性がうかがえます。

そして外国からの侵略に危機感を持っていた斉昭は、追鳥狩(おいとりがり)と称する大規模な軍事訓練を行ったり、西洋近代兵器の国産化を推進しました。

幕府に北海道の開拓や大船建造の解禁を提案するなど、その言動は全国に影響を及ぼしました。

一方で領民に対しては「愛民専一」を掲げ、年貢の不公平感を減らすために200年ぶりの検地を行ったり、凶作の年には他藩から米を買い付け、稗蔵を開放して農村の救済に充てるなど善政に取り組みました。

しかし、寺社の釣鐘や仏像を没収して大砲を鋳造したり、無許可で砲撃訓練を行ったことで幕府ににらまれ、1844年には強制的に家督を長男に譲らされた上で、隠居と謹慎処分を命じられてしまったのです。

徳川斉昭の生涯③「幕末に風雲を呼んだ晩年とその死」

無理やり隠居させられた斉昭でしたが、彼の治世で恩恵を被った領民や身分の低い藩士たちから復権を願う声が根強く、おかげで2年後には謹慎が解かれ、1849年には正式に藩政への復帰がかないました。

そして1853年、日本中を揺るがす一大事件が起こります。黒船の来航です。ペリーに開国を迫られた老中首座(幕政の最高責任者)の阿部正弘は、海防問題に詳しい徳川斉昭を参与に任命します。

晴れてご意見番となった斉昭は、74門の大砲と洋式軍艦1隻を作って幕府に献上すると共に、「開国反対。交渉を引き伸ばしつつ軍事力を強め異人を撃退すべし!」と強硬な主張を展開しました。

しかし、自らを引き立ててくれた阿部が1857年に急死したことで運命は暗転します。翌年に大老(老中を上回る最高職)となった開国派の井伊直弼は、アメリカと独断で通商条約を結び、将軍の後継者問題でも斉昭と真っ向から対立してしまいました。

結局斉昭は謹慎に追い込まれ、さらには水戸での永蟄居(えいちっきょ:一生外出禁止)という処分が下って政治生命を絶たれたのでした。

そして1860年8月15日に水戸で急逝。死因は心筋梗塞と推定されています。

2.徳川斉昭という人物像を表すエピソード集まとめ

2-1 子だくさんで女好き

37人の子供をもうけた程の絶倫で、正室との中はとても良かったとのこと。

ただし、兄嫁付きの上級女中を妊娠させたり、大奥の女性たちにセクハラまがいの言動をしたり、長男の嫁に手を出して自害させたとの噂があったりと、桁外れの女好きとして知られていました。

2-2 礼儀にうるさい倹約家

礼儀作法に厳しい斉昭は、幼い息子の慶喜(徳川家最後の将軍)の寝相を矯正するため、枕の両横にカミソリを置く荒療治を行ったと伝えられています。

一方で自らにも厳しく、「自分は元々日陰者、食事に金をかける必要はない」と、水戸家を相続した後も部屋住み時代の食事のまま通させました。

また、水戸藩は35万石の領地の他に毎年1万両の補助金を得ていましたが、「祖先が拝領した35万石で生計を立てるのが筋」と、斉昭の代からは1万両を返金しています。

2-3 井伊直弼との対立は食い物の恨みから?

江戸時代は肉食がNGでしたが、彦根藩だけは牛肉の味噌漬作りを許され、将軍家や諸大名に進呈していました。

斉昭は毎年それを楽しみにしていましたが、熱心な仏教徒の井伊直弼が藩主になると牛の殺傷が禁じられ、味噌漬が届かなくなりました。

斉昭は何度も催促しましたが直弼は断り続け、その恨みが後の対立の引き金になったとも言われています。

3.「人々とともに楽しむ」という徳川斉昭の想いが生んだ偕楽園

日本三名園の一つで、都市型公園ではNYのセントラルパークに次ぐ世界2位の広さを誇る「偕楽園」を造ったのも斉昭です。

自らが付けたその名には「人々と偕(とも)に楽しむ園」の意味があり、領民たちや、弘道館で学ぶ若者たちを癒す場として造られました。

当時から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されており、その伝統を受け継いで、今もなお三名園の中で唯一入園無料となっています。

4.まとめ

いかがでしたでしょうか。

「烈公」と諡(おくりな)されたほど気性が激しく政敵も多かった斉昭ですが、徳川光圀と並ぶ名君として領民からは慕われる存在でした。

偕楽園に隣接する仙波公園には斉昭・慶喜親子の銅像が建てられていますので、水戸観光の際はぜひ足を運んでみて下さい。

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